醒める事のない退屈。日常の連続という悪夢。

2017年9月26日


ここ1ヶ月の日々は、僕にとって非日常的な時間が長く、
むしろ非日常的な時間が、日常化する楽しい日々だった。

競技生活が長くなると、マンネリという悪魔にとり憑かれる選手は多いと思う。
僕もその一人に違いない...。

長い長いワンパターンと、ルーティーンの中で、
同じ動作を積み重ね。同じ練習を積み重ね。経験を重ね。日々を重ね。年を重ね。
それでも同じ動作と練習と生活の日々を重ねる。


職人も同じなのだろうか?
職人は同じ様な動作を繰り返し、経験と日々を重ねて、より感覚や能力が研ぎ澄まされて行くのだろうか?

僕の経験としては同じ動作の繰り返しをすると、ある時点からその動作に使う神経が鈍る感じがする。
研ぎ澄まされる感じとは逆の方向に感じるけど、そこは人それぞれなのだろうか?
むしろ、いつもと違う動きや生活、いつもと違う内容に身を置く事で、そこに生じたズレを修正するための感覚が研ぎ澄まされる気がする。
対照的に、同じ動きを繰り返し続け、精度を上げる様なトレーニングを続ける事で、ズレに対する修正力や感度が鈍り、その結果 精度も落ちる事が多い気がする。




例えば毎日、朝昼晩365日カツ丼を食べ続けたとしたならば、
その日々を繰り返す事で、カツ丼の味に対する感度は研ぎ澄まされるのだろうか?
それとも同じ味を食べ続ける事で、神経は退屈し、退化していき感度は落ちていくのだろうか?
疑問はあれど、僕の経験的な感覚で言えば、後者。
だから非日常的な日常を、僕はいつも日々求めてしまう。

子供の頃に時間が長く感じていたのは、単に子供だったからではなく、子供だったが故に何も知らず、全てが新鮮で、全てにおいて学習途中であり、常に何かが変化していたからだと思う。
大人になると仕事に就き、ルーティーン化され、身体の成長も心の成長も止まるから、神経的に時間が短く感じるだけに過ぎない気がする。

僕はこの退屈から脱出するために変化を与えないと行けない。
ただ自分が自分による、自分の中にある選択肢とアクションで生み出せる自分の変化など、自分の中で既に構成された、自分の中の内容の変化に過ぎない。
だからこそ自分のまだ知らない土地や、人々との出会い、新しいコミュニティとシステムに身を置く事が一番の変化になるのだと思う。
だから僕の旅は、自分探しの旅では無い。まだ自分がいない場所を探すための旅であり、
その中で新しい自分が生まれ、結果 副産物的に新たに自分が見つかる事があるだけに過ぎない。


ああ。早くまたどこか知らない場所で、アクティブに動きまわって、新しい何かを経験したい。
その何かが想像できない事。それが一番の楽しみ。

写真18.jpg

その道の向こう側が気になる。
その好奇心こそが僕にとっての推進力。

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